3年目の世界文学全集への挑戦

40代既婚の男がふと思い立って世界文学全集に挑んでいます

合名会社への吸収合併

 『白鯨』の今日読んだ箇所でも、捕らえた鯨はまだ主人公の乗っている捕鯨船につながれていて、その鯨をめぐる乗組員たちの行動が描かれています。そして、その行動を通して考えたことを主人公が述べています。
 鯨の背に乗っている仲間と一本の綱でつながれた主人公は、仲間が転落すれば自分も一緒に転落することを認識しており、それを生きているあらゆる者の境遇と同じであるとしています。自分の状態を、二人の合名会社に吸収合併されていると表現していますが、確かに、人はほかの人との関係の中で生活していて、自分でコントロールできることもあれば、そうできないこともあり、ほかの人に起きることのために大きな影響を受けることがあり得ます。
 だれとつながるか、そして、どういう気持ちでつながるかが重要だと思います。

大天使様

 今日は、『白鯨』の主人公が乗っている捕鯨船が別の捕鯨船に遭遇する場面を読みました。
 遭遇した相手の捕鯨船には、自らを大天使ガブリエルであると称する狂信者が乗っています。同乗者たちを惑わして、船の中で大きな影響力を持つようになりました。まわりの人たちの反応が極端である気もしますが、長期間の航海という逃れるのが難しい環境によって、間違っているにしても強い確信を持っている人に従うようになってしまったということであると思います。
 言っていることの正しさよりも言う人の確信の強さによって動かされることは、地上でもありそうです。

鯨が見てきたもの

 『白鯨』の今日読んだ箇所に、ある登場人物が鯨の死骸に話しかける場面がありました。
 海の底深くまで潜るので、人間には見ることのできない世界を鯨が見てきただろう、というようなことを言っています。たとえば、海難事故で命を失った人を海の底で見ただろう、といったことです。実際には人間の死体は浮かんでくると思いますが、鯨に対してそう言いたい気持ちはわかる気がします。
 鯨の生き方に結びつけて、人間の限界やはかなさが示されているように感じました。

鯨の肉を食べることに関する意見

 『白鯨』のある登場人物が鯨の肉を食べる場面に、鯨の肉を食べること一般についての記述が続いています。
 米国でも捕鯨が行われていた、この作品の書かれた時代にも、人によっては鯨の肉を食べることを厭わしいと思っていたようです。その理由として、鯨の脂を使って灯している明かりのもとで鯨の肉を食べるのは野蛮である、という考え方が示されています。いずれか一方ならば野蛮でなくて、両方が一緒になると野蛮である、というのはよくわかりません。

鯨肉のステーキ

 『白鯨』の今日読んだ箇所では、直前の鯨を捕える場面で中心的な役割を果たした乗組員の幹部の一人が、捕獲した鯨の肉をステーキとして食べる様子が描かれています。
 捕鯨船が鯨の死骸を引っ張りながら移動していく中で、まわりにサメが集まってきて、その鯨の肉をついばんでいます。大きさの対比はよくわかりませんが、サメに食べられてもまだ十分に残りがあるほど獲物の鯨が大きいのだと思います。少しステーキになってもそれほど大きな影響はないのでしょう。

鯨を捕える場面

 『白鯨』の今日読んだ箇所では、初めて鯨を捕えるところが描かれていました。主人公は捕鯨船に乗るのが初めてであることから、主人公にとっても初めての経験です。
 捕鯨船の人たちの側からすれば、とても強力な相手であるだけに、有効な攻撃を少ししたぐらいでは仕留めることができず、攻撃し続ける必要がありそうです。この場面でも激しい格闘が描かれていますが、鯨が苦しむ時間は長そうで、見方によっては残酷と受け止められるような記述です。そうはいっても、この作品が書かれた時期には、捕鯨は当然のことで、反対する動きがその後大きくなることは想像されていなかったと思います。

 『白鯨』の今日読んだ箇所で、鯨索(げいさく)という捕鯨のための道具が紹介されていました。
 「検索」とか「捜索」という言葉に含まれているため、「索」という字があることは知っていましたが、この字に「つな」という意味があるとは知りませんでした。
 「縄」が細いなわを指し、「索」が太いなわを指すことも初めて知りました。